闇のWeb小説レビュー

Social inclusion is the process of improving the ability, opportunity, and dignity of those disadvantaged on the basis of their identity.

エリート女子小学生ちゃんは万引きしない

クール系女子小学生の魅力。

   

   1

 その日もいつもと変わらない放課後になるはずだった。柏尾士苑は家の近くの公園で時間を消費していた。大きな公園で、外周は六百メートルもあり、彼の住む地域の健康志向の人々が好んで使うランニング・コースにもなっていた。気持ちよく手入れされた花壇には菜の花が誇らしげに咲きそろっていた。柔らかい春風がその黄色い花の芳しいにおいを運んできた。花のまわりをモンシロチョウがどこかぎこちなく飛んでいた。その軌道は彼に株価チャート・パターンのソーサー・トップの形を思わせた。彼の足下からは人間の気配を感じとったらしい鳩が空に飛び立っていった。サミュエル・テイラー・コールリッジ流に言えば、まさしく自然はみな活動しているようだった。それは五月のまだ明るい夕方のことだった。

 士苑は公園を十分ばかりうろついた。快活に遊ぶ子どもたち、立ち話をする母親たち、そして散歩中の大型犬をぼんやりと眺めた。それから少し休もうと人気のない場所に行くと、顔見知りの少女がベンチに腰掛けていた。まるで休眠預金口座のようにぴくりとも動かずに。少女は鞄を抱えていたが、それは進学塾「ZAPIX」の通塾バッグだった。濃い青色の生地に、白い「Z」の文字が刺繍されていた。これから塾にいくのだろう、と彼は思った。

「こんにちは、六花さん」士苑はひかえめに声をかけた。

 彼女は猫みたいに虚空を眺めていたが、その声に反応してほとんど自動的に彼の方を流し目で見やった。そして少しびっくりした様子で「お兄さん、こんにちは」と言った。

「これから塾?」立ったまま彼は言った。

「はい──いちおう。自習に行こうと思って」どこか含みのある口調で彼女は言った。「お兄さんも座ってください」

「うん。そうする」と言って、士苑は古びた木製のベンチに腰を下ろした。木材の軋む音がした。その黒ずんだベンチは、まるで多額の予算を投資したのにもかかわらず、メディア・ミックス展開に失敗した小説のような哀愁を漂わせていた。

 士苑は西条家のことをよく知っていた。彼の隣の家に住む共働き世帯で、父は銀行に、母は商社に勤めている。一人娘の六花は中学受験を控えた小学六年生で、近所の公立小学校に通っている。彼女は美しい容貌と、小学生らしからぬ大人びた雰囲気を持つ少女だった(ここだけの話、西条家とバーベキューをするたびに、士苑は彼女のことを熱心に目で追っていた)。

 柏尾家と西条家は、若葉台の高級住宅地に暮らしている。誇るべき隣人たちはみな自動運転レヴェル5を搭載したアップルかテスラの電気自動車を所有しているし、彼らの優秀な子どもたちは、おやつにコカ・コーラではなく成城石井のクラフト・コーラを飲んでいる。ここでは新参者が引越しの挨拶に向かうと、住人からはおおよそこういう台詞が返ってくる。「高収入と美しい顔立ちと外車の町へようこそ! 休日はみんなで庭でバーべキューをしたり、マリーナベイ・サンズ・ヨコハマに行って、光り輝くように美しい賭場で健全なギャンブルを愉しみましょう!」と。

 二人の間にしばらくの沈黙が生じた。あいにく士苑は女子小学生と話すのにうってつけの話題を持ち合わせていなかったし、六花も黙って地面を見つめるばかりだった。

 六花が唐突に口を開いた。「ちょっと愚痴に付き合ってくれませんか。ひとり言みたいに勝手に話してるので」

 士苑は女子小学生の愚痴話というやつに少なからず関心をひかれた。それは家族のことかもしれないし、あるいは学校のことかもしれない。いずれにせよ口に出してみることで少しは楽になれるはずだ。

「いいよ。好きなだけ吐き出せばいい」彼は優しく言った。そしてベンチに深く座りなおした。

 ありがとうございます、と彼女は小さな声で言った。

「まず一つ目」彼女が言った。「今日学校でヴィーガン給食が出たんです。牛乳の代わりにオレンジ・ジュースを、豚肉の代わりにソイ・ミートを使ってたりしたのは、まあいいんです。私が気に食わなかったのは、全員強制的にヴィーガン食にされたことです。食べたい人だけ食べればいいじゃないですか。子どもに同質の思想を植え付けようとする道徳の授業みたいな気持ち悪さを感じました」

 彼女は淡々とこう述べて、一息つくように大きく息を吐いた。

「どうやら俺の母校はずいぶんと先進的な取り組みをしているらしいな」皮肉を込めて士苑が言った。「卒業生として誇らしいよ」
 
 六花は苦笑を浮かべた。「そうですね。自慢の学校です」

「完食したのか?」

「はい。完食しないわけにはいかない雰囲気だったので」彼女は肩をすくめた。「わかりますよね?」

「わかるよ。よくわかる」士苑が角ばった声で呟いた。

 彼女は無言で頷いて、脚を組んだ。思わず彼の視線はその素晴らしい脚に吸い寄せられた。ヴィーガン主義者ではまずお目にかかれないような、健康的で官能的な脚だった。

「そして二つ目です。問題なのはこっちなんです」彼女が言った。「実は塾のクラス分けテストの結果が悪くて、クラスが落ちちゃったんです。友達はみんなα1かα2なのに、私だけα3。それでなんだかやる気もなくなっちゃって、最近ぜんぜん勉強できてないんです。来週大切な模試があるのに──ああ、目標の偏差値に届かなかったらどうしよう」だんだん話し方に強い感情があらわれてきた。「そういうわけで自習にも行かず、こうしてただ時間を浪費しているんです。特に趣味もない年金暮らしのシングル高齢者みたいに」

 彼は彼女に深く同情した。

 中学受験競争の激しさは年々加速度的に増している。多くの名門中高一貫校が高等部での募集をやめつつあり、その皺寄せが中学部に来てるのだ。去年の流行語大賞に「中学受験落ちた日本死ね」が選ばれたことは士苑の記憶にも新しかった。

「そっか。でもα3だってすごいじゃないか。上から三番目のクラスなんだし」彼は万感の思いで言った。「それに模試のことなら心配しなくてもいい。日本銀行だってインフレの目標値をもう十年以上も達成できていないんだから」

 何の慰めにもならないことは士苑にもわかっていたが、それでも何か言わずにはいられなかった。あるいは単に会話が途切れてしまうのを恐れたのかもしれない。しかしいずれにせよ彼女の学力は十分な高さにあると、彼は本心から思っていた。

「ありがとうございます」彼女が静かに言った。「そういえば、お兄さんはあの聖励学院に合格されたんですよね。本当に凄いです」

「ああ、いや、ありがとう。なんとか合格できたよ」彼が言った。「もう受験はこりごりだけどね」

「男子高ですよね? どんな感じですか?」

「うーん」と彼は困ったように言った。「正直女子が恋しいよ」

 六花はくすくすと笑った。そして好奇心と嗜虐心の混じり合った表情をつくった。

「ずいぶんと直截な物言いをするんですね、お兄さん。もしかして、もしかしてですけど、私に何か期待しているんですか? 私まだ小学生ですよ?」

 彼女は士苑の方に身を寄せて、彼の瞳を上目遣いでじっと見つめた。すぐに彼は顔を真っ赤にした。そして飛び跳ねるように立ち上がった。

「ちがうぞ、ちがうからな?」彼は慌てて早口でまくしたてた。「だから防犯ブザーとか鳴らさないでくれよ?」

 妖艶な少女が言った。「落ち着いてください、お兄さん。軽い冗談ですよ」

「ええ? ああ、そうか。うん、それならいいんだ」

「ですがその慌てようを見るに」少女は官能的な笑みを浮かべた。「何かやましいことでもあるんですか?」

 士苑はぎくりとした。しかしつとめて冷静を装った。「あるはずないだろう?」と気取った声で言った。

 目の前の女子小学生がからかうような視線を寄こしているのを見て、彼はここらで年上らしい態度を見せる必要があると感じた。

「さて! すこし喉が渇いたな。そこのドラッグ・ストアで何か買ってこよう。六花さん、よかったら何かおごらせてくれ」

「いいんですか?」

「うん。体に悪そうなお菓子を食べたくないか?」

 六花は顔を輝かせた。「食べたいです。それにちょうどヴィーガン食の口直しがしたいと思っていたんです。動物性の食材が恋しいです」

「よしきた。じゃあさっそく行こう」
 

   2

 ドラッグ・ストアは公園のすぐそばにあった。アメリカン・テイストを感じさせる外観で、天井は高く、開放感に溢れていた。入口の前にはカプセル・トイが十二台設置されていた。士苑はちょっと立ち止まってそれらを眺めた。「どれも五百円以上するのか」と彼は呟いた。平成や令和の時代にはたった二百円で回せるものもあったようだ。今の時代にそのような価格をつけようものなら、おそらく空のカプセルしか出てこないはずだ。

 店内に入ってすぐに、彼には気づいたことがあった。

「あれ、レイアウト変わった?」

 お菓子売り場がレジ・カウンターのすぐ近くに配置されている。前はもっと奥にあったのに。中を見渡すと、それに伴ってほかの売り場の場所も変更されているようだった。

「そうみたいですね」少女が言った。「ええっと、というか──」

「というか?」

 六花は大きく深呼吸をした。そしてためらいがちに口を開いた。

「それ、うちのクラスの子のせいなんです」

「ほう? どういうことだろう」好奇心を持って彼は尋ねた。

 こういうわけなんです、お兄さん(と六花は言った)。結論から言えば、うちのクラスの子たちがここのお店で万引きをしたんです──それもたくさんの商品を、何度も。それでその対策として売り場のレイアウトが変更されたんです。
 
 最初に万引きしたのは先月のことです。盗ったのはお菓子です。その次の日、彼らは学校に戦利品を持ってきました。そしてそれらを私たちにふるまってくれました。まるで軍人が戦闘機の機体にキル・マークを描いて、撃墜した敵機の数を誇示するみたいに。万引きしたものだとは知らされていなかったクラスメイトは、「ありがとう!」と言って、無邪気な笑顔でお菓子を食べつくしました。その姿に満足したらしい彼らは、それから万引きをする度に学校に食べ物を持ってくるようになりました。彼らは新しいクラスの人気者になりました。

 犯行に手慣れてくるにつれて、一度でどれだけ同じ商品を盗めるかどうかを仲間内で競い合うようになったみたいです。このお店のほかにも、駅前のスーパー・マーケットやデパートにも行動範囲を広げて。棚から商品を空っぽにしてやることに達成感でも覚えていたんでしょうか。
 
 ちなみに、万引きをしていたのは私と同じ塾に通う子たちでした。そうです「ZAPIX」です。みんな成績は優秀でしたが、受験のストレスでおかしくなってしまっていたんでしょうね。万引きがそのストレスのはけ口だったんですね。

 当然といえば当然ですが、その子たちは現行犯で捕まることになります。それがこのドラッグ・ストアでした。前からマークされていたようで、その子たちがお店に入ると、「デイリーの夢見さん、内線三十二番までお願いします」という放送が流れました。ええ、これが符丁というやつです。万引きの前科がある客が来店したという合図だそうです。これを聞いた副店長は私服に着替え、私服警官として彼らを見張りました。そして見事に犯行の現場を捕らえ、親と学校と警察に連絡をしました。

 次の日、学校では一時間目の授業を潰して、緊急で学年集会が行われました。多目的室には重苦しい雰囲気が充満していました。いつもは騒がしいお調子者たちも、口を噤んでいました。

「非常に悲しい事件が起こりました」戦争の降伏でも宣言するような調子で先生が言いました。とても低い声でした。「名前は出しませんが、この中に万引きをした人がいます」

 強烈な衝撃が私たちに襲いかかりました。体育座りをしたまま、私たちは凍り付きました。そして私を含む二組の生徒は静かに悟りました。これまであの子たちがごちそうしてくれていたのは、万引きをして手に入れた食べ物だったということを。突然ある女の子が泣き出しました。声のした方を見ると、同じクラスのおとなしい子でした。きっと怖くなったんでしょうね。もしかしたら自分も何らかの罪に問われてしまうかもしれないと。その負の感情はドミノ倒しのようにほかの子たちにも伝播していきました。不測の事態に先生たちが集会をいったん中断したときには、すでに私を除く二組の女子全員が涙を流していました。他クラスの生徒は奇異の目で私たちを眺めていました。とても最高の気分とは言えませんでしたが、それでも補修塾通いのくせしてクラスのリーダー気取りの生意気なぶす女の、雨に濡れた羊のように弱々しい姿を見れた瞬間ばかりはとても愉快な気持ちになりました。彼女の表情は今でも鮮明に思い出せます。三点リーダーをやたらめったら多用した文章のように醜いものでしたから。
 
 さて、ここまでは仔細にお話しできましたが、実はこの後のことはあまり覚えていないのです。夜遅くまで勉強していて眠かったんですね。ただぼんやりしていました。ああ、でも、やはり緊急で保護者会も開催されたみたいですよ。ただフルタイムで共働きしている家も多いですから、参加者は少なかったらしいです。たかが保護者会なんて理由で有給なんて取ってられないでしょう、というのは私の母の談です。件の子たちのご両親も欠席されたみたいです。「ZAPIX」の月謝の支払いと住宅ローンの返済と老後の貯蓄のために休む暇もなく働かれているんですね。
 
「なるほどなあ。そんなことがあったとは」と言って士苑は買い物かごにジンジャー・エールを入れた。「ひとつアドバイスをしておこうか。万引きをするならまんべんなく違う商品を盗むべきだ。同じ商品をいくつも盗るべきじゃあない。受験において得意科目だけ勉強していてはいけないようにね」

「えっと、はい。勉強になります」六花は少しびっくりしたように言った。

「でもまあ、何にせよ受験は大変だよな。それが中学受験ならなおさらだ」彼はまじめな口調で言った。「六花さんもけっして小さくないストレスを感じているはずだ」

「そうですね、その通りです。勉強しているとときおり発狂したくなります」彼女はうんざりしたように言った。

 一瞬の沈黙があった。店内に流れるバック・グラウンド・ミュージックがいやに鮮明に六花の耳に流れ込んできた。まるでダムに貯まった水を一気に放流したみたいに。二人から少し離れたところでは、日本の生活インフラのように老朽化した顔の男が、若い女性店員にしつこく話しかけていた。やれやれ、と彼女は思った。ここはキャバレーではないのだ。老人が若い女とおしゃべりに興じたければ、相応の場所で相応のお金を支払うべきなのだ。

 それから彼女は目の前の高校生が意味深長な瞳でこちらじっと見つめていることに気付いた。

「してみるか? 万引き」声を潜めて彼が言った。

「え?」思わず大きな声を出してしまった。
「どういうことですか」

「今なら比較的安全に万引きできるはずだ。作戦はこう。俺がわざと不審な行動をして店員を引き付ける。そのあいだに六花さんは盗みをはたらけばいい」彼は言葉を続けた。兵器を売りつけようとする死の商人みたいな顔をしていた。「ストレス発散には軽犯罪がもってこいだぞ。どうだ? 悪い話じゃないと思うんだ」

 六花はそのけんまくにちょっとたじろいだ。しかし「良い話でもないと思います」と毅然とした態度で言ってみせた。

 士苑がいつもの優しい表情に戻って言った。「そうか、そうか。やっぱり真面目なんだな、六花さんは」

「いえ……」彼女は肩の力を抜いた。

 眩いくらいの蛍光灯の光にあてられながら、彼女は人間が算数の図形の分野で出てくる多面体のようにいくつもの面を持っていることを知った。そしてそれは自分も例外ではないことも。

「ねえ、お兄さん」彼女は言った。「いずれにせよ私のストレス発散に付き合ってくれる気があるということですか?」

「うん。何でも言ってくれ」

「じゃあ、私とセックスしてください」

 目の前の少年から表情が消えた。そして彼は慌てた様子で辺りを見渡した。まるで灯台みたいに。

「いや、できるわけないだろう! そんなこと。なあ、からかってるんだよな?」

「からかってません」彼女は真剣な口調で言った。「最近勉強できていないってさっき言いましたよね。実はあれにはもうひとつ理由があるんです。それは性欲です。学習意欲とは反比例するように性欲が強くなってきているんです。私は毎晩マスターベーションをするようになりました。おとといも、昨日もしました。何度もオーガズムを迎えました。そして心地よい気怠さに包まれながら眠りにつきました」

「ちょっと、六花さん!」

「でもね、お兄さん。だんだん自分の指じゃ満足できなくなってきたんです。私にできるのはただマスターベーションの回数を増やすことだけだというのに──ここまで言えばわかりますよね? だからお兄さんとセックスしてみたいんです。私の性欲を満たして欲しいんです」

 六花が一息に話しているあいだじゅう、士苑はわざとらしくお菓子を選んでいるふりをしていた。しかしその一言一句を聞き漏らしてはいなかった。こめかみのあたりがじんわりと熱を帯びていた。俺はどうしたらいいんだ? と彼は思った。その答えは学校の教科書にも、市販の参考書にも、塾のテキストにも載っていなかった。今になって、受験という居心地の良い箱庭の中に戻りたくなった。

「悩んでいるふりをされていますけど」小さな悪魔が囁いた。「内なるお兄さんの答えはすでに決まっているはずです。ねえ、いつも私の太ももを盗み見てペニスを大きくしているお兄さん?」

 この言葉を聞いて士苑が浮かべた表情を観察した六花は、満足げに深く頷いた。

「これから私の家に行きましょう。ご存知だと思いますが、両親はいないので安心してください」

 うん、と彼は言った。震える手で買い物かごを持ちながら。

「おあつらえ向きにここはドラッグ・ストアです。であれば買って帰りましょう。おいしいお菓子とジュース、そして大人たちの言葉みたいに薄っぺらいコンドームを」